ヒプマイ語り

ヒプマイの好きなところを語り倒すブログです

観音坂独歩について&一二三と独歩について①&既存4ディビジョンキャラの持つテーマについて

グッバイ世界、ハロー幸福 - トワのマンガ - pixiv

 


この漫画で表現したかったのは、一二三の言葉によって独歩の生き方が変化する瞬間と、ヒプマイのみんながそれぞれ抱えているテーマを絡めて表現したかったというものでした。

 

人と関わり、お互いに影響し合うことは、ある意味で相手の言動を縛るということでもあります。しかし他人を知って変わっていくことは「正しい」「間違っている」と判断できるものではなく、一二三と独歩がお互いの存在の深いところで繋がり合っていくこと自体が新たな価値を生んでいるということを描きたかったです。

 

また、イケブクロは「時間」、ヨコハマは「信念」、シブヤは「生死」、シンジュクは「人間」をテーマに考えてみました。そして独歩に「生きていることとは何かという生命の定義について」(シブヤ)→「生きているときに逃れられない時間という生命の性質について」(イケブクロ)→「生きる意味とは何なのかという生命の内容について」(ヨコハマ)→「今生きている自分という存在はなんなんだという自分という概念について」(シンジュク)という順番でみんなに問わせることで、独歩とそれぞれのキャラを比べたときに浮き上がってくる人間性について表現したいと思いました。

 

というわけで、登場してきた順についてそれぞれ書いていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

有栖川帝統「生きること」

やっぱり最初に独歩と向き合わせるならば帝統が良かった。そして「生きること」そのものを帝統は直感的に理解できる人だと思ったのでこのような形になりました。

「生きること」って、「ありとあらゆるものを見て知って聞いて経験する」「感情を得ること」なのかなと考えていて、それは帝統がヒプマイの中で一番体現しているような気がしています。帝統はギャンブル大好き人間ですが、ギャンブルに買った時の成功体験に味を占めているというよりかはギャンブルしているときの自分と、ギャンブルの空気そのものが好きだと思います。勝ち負けや結果だけではなく、過程の実感こそを愛してるんだろうなって思います。実際、帝統がギャンブルしているときに「最高に生きてるって感じがするぜ!」という台詞もあったと思います。

これはかなり究極的な生き方で、他人の意見が気になってしまう人が多い中、誰にどうこう言われてもまったく気にしないでやりたいことを追求できてしまう最強の存在、それが帝統だと思います。なので、独歩の「生きるってなんだ」という問いに答えるのは帝統にしました。

 

ただし、こういうことを突きつけられても動じないのが独歩が独歩たる所以で、帝統に色々言われてもまったく響いてないところも表現したかったです。

独歩って、「常に生死のあいだをゆらゆらまどろんでいる人」だと思っています。独歩は何か明確な目的を持っているわけでもなく、ただ一緒に暮らしている一二三が傍にいて、寂雷先生のように確固たる意志と社会のためになる生き方を羨みながらも達成したい明確な理想があるわけではなく、ただ日々のしんどさをに愚痴ってみながら安らぎの世界を求めて彷徨っているイメージがあります。

そしてチグリジアにて「今日も世界に音が多すぎる」「必要ない程ドラマティックなLIFE」と言っているように、独歩はとめどなく溢れてくる”自分の感情”に溺れている人だと思います。繊細すぎて多感すぎてそれに対応しきれなくて、もうそれならいっそ全部投げ出したい、何もしたくない。とにかく「口は手の代わり目と鼻と耳を塞いだ」「放っといてくれないか」「眠りたいだけ」。独歩って、感情の情報が多すぎて今自分がどういう状態にあるのかほとんど自覚しないで生きている人だと思います。なんだかしんどかったり辛かったり怒っていたり悲しかったり他人に優しくしたかったり自分のことを求めて欲しかったりちゃんと周りの人に感謝したいし恩義には報いたい。そういうただ移ろいゆく感情の波に揺蕩っている人だと思います。

だから帝統に「生きるとは感じることなんだ」と突きつけられても、独歩にはすでに感情過剰な状態なのでもはやそれを感じる部分が半分麻痺していて、独歩の生き方は変わらないと思いました。すでに独歩の心というコップに注がれた感情という水は溢れているので、さらに水を注いだところで独歩の体感としてはコップから水が溢れることに変わりはなく、帝統にそう言われても今までと大差ないというか、会話が成り立っていない状態だと思います。

 

帝統からすれば生きることは「自分の感情に素直にシンプルに楽しむこと」なので、独歩はなんでそんなところで立ち止まっているだろう、ただ前に進めばいいのに変なやつだなと思って嘲笑っていて欲しいと思ったし、帝統と独歩は生き方や考え方がポジティブとネガティブで真逆なので、向き合っていながらもお互いの姿はその瞳に写っていない…というイメージを表現できたらいいなと思いました。

 

 

 

夢野幻太郎「死ぬこと」

「生きる」ことがきたらやっぱり次は「死ぬこと」を考えなくてはならなくて、そしてその「死」を語って欲しいのは幻太郎が良いと思いました。

幻太郎は遠い過去に自分を置き去りにして、その過去の地点から現実を眺めることで、まるで達観しているかのように見せかける人だと思います。袴姿に固執したり青年が入院しているであろう病院に出入りしている描写からも、今もまだ「青年」が幻太郎にとって大きな意味を持っていると分かります。このように過去の出来事での自分に対して評価をくだし、それを現在の自分にも適用し続ける人です。

幻太郎はある意味で変化することに怯えている人なのではないかと考えています。自分の友人への感情に自信を持つために、気持ちを変えないことを課して自分の過去の正しさを証明しようとする人ではないかと考えています。

 

そしてこれは私の考えなのですが「生=変化」で、「死=不変」です。

この世界は有為転変諸行無常であり、その世界で生きる人間もまた常に変化していく存在で、それこそが人間を人間足らしめていると私は信じています。また、「今より少しでも良くなりたい」という本能こそがこの世界に存在する意味であり、人間とは本来成長や進化を望む存在だと思います。だから「生=変化」です。

そして自殺した人は自殺したことが分からなくてその自殺した瞬間を何度も繰り返すという話のように、人間って死ぬ瞬間が永遠になるものだと思っていて、「死=不変」です。

だから「不変」を重んじる幻太郎は「死」の概念と共存しているイメージがあります。自分の過去の思いを永遠に留めておこうとする行為は変化する自然な流れに反するものであり、それは「生」への反逆であり、つまり「死」へと向かうことだと思うからです。

そもそも嘘を付き続けて自分の存在を曖昧にして他者に認識されないようにしている振る舞いも「生」の要素を薄めようとしている行為に思えました。ヒプラジにおいても、彼の情緒不安定とも言える言動は私達に夢野幻太郎を捉えさせないようにしてくるように感じました。

なので、「死」についての問いに答えるのは幻太郎以外に考えられませんでした。

 

そんな幻太郎ですが、独歩と向き合うときはその姿を見せることはありません。モニター越しだったり、拡声器だったり、スピーカーだったり、テレビだったり、公衆電話から伝えます。

それは幻太郎が嘘をつくのは、人と関わることを心のどこかで恐れていることに由来すると考えたからです。相手と向き合う時というのは、同時に相手に認識される「自分」という存在と向き合わなければならないことでもあると思います。そして幻太郎は嘘をつくことで相手と真っ直ぐに向き合うことを避け、相手に認識される「自分という存在」から逃げようとしているのではないかと思っています。

 

独歩もまた他人の目を気にして謝りたおしている人間ように見えるかもれしませんが、独歩のあの言動は元々自分を責める気持ちがあり、それを周りに適用しているだけなので、実際に周りの人がどう思っているかは関係ないというのが幻太郎との違いです。つまり独歩は周りの世界なんてちっとも見ようとしていないと思います。ただ独歩の中にあるのは自分の感情だけで、「こんなんじゃだめだ」という叱責は彼自身に由来しているものだと思います。

そういうわけで、独歩は常に自分の感情の中で生きている人なので周囲の目を恐れる幻太郎の心理は理解できないものであり、彼の言葉をぼんやり見聞きしています。そしてただ幻太郎の言う「死」という概念を不気味に思うだけです。

 

「生=変化」と書きましたが、それはつまり「有限」ということであり、区別があり、それは「個」が存在していることだと思いました。

また、「死=不変」と書きましたが、それはつまり「無限」ということであり、区別がなく、それは「全」のみが存在していることだと思いました。

そういうわけで「有限から解き放たれ無限となる そこには個が失われ真実だけが残る 有限が無限となり個という概念が失われる」という台詞になりました。

 

 

 

飴村乱数「世界」

そして「この生死の性質を持つ世界とは何なのか」については自分という存在を世界の外側においている乱数に語ってほしいと思いました。

「人間」そのものを恨んでいる乱数。乱数は他者と接するときに”共感”ではなくて”興味”で他人と関わる人だと思っています。乱数からすると、この世界に「飴村乱数」という概念が無理矢理押し込まれている感覚で生きているのではないかと思います。

人間は普通”共感”によって他者との関わりを感じるものだと思うのですが、乱数からほとんどそれを感じません。実際、ヒプラジにおいても乱数にとって人間とは興味の対象に過ぎないということがよく表れていたと思います。

乱数は作られた存在という仮定に基づくものなのですが、山田兄弟や左馬刻のように「家族」だったり、銃兎や理鶯や寂雷のように「理想」だったり、幻太郎や一二三や独歩のように「友人」といった自分のアイデンティティ形成におけるセーフティーネットがないのではないかと思います。乱数は世界に一人ぼっちで、心の底から自分と同等だと信じれる存在がいないと考えているように見えます。

だからこそ乱数は自分というものを自分で定義するために周りを否定することで相対的に自分の正しさを証明しようとする切なさがあると思っています。

 

またこれも私の考えなのですが、「理解」と「共感」は別だと思います。人間は別個体であり脳で考えていることを共有できないこと、また一つの言葉をとってもそれに付随するイメージはその人の経験に基づくために同じ言葉であっても完全に同一の意味にならないことより、本質的な「理解」はできないと考えています。そのかわり相手の出来事や境遇を自分の経験に照らし合わせることでその人の感情を追体験する「共感」があるのだと思っています。

乱数は自分と同等の存在はいないと感じていて、それゆえに自分と違う存在とは決して「理解」し合えないことを現実として悲しいほどに理解しきってしまっているので、自分の存在を信じるために周りを否定し、自分以外のすべてという敵と戦い続けなければならない凄惨さがあると思います。(普通の人はこのことを意識する機会はあまりなく、また理解し合えるという希望を持つことができるの思うのですが、乱数にはその希望すら打ち砕かれた状態だと思います。)

そんな人間社会に取り込まれることを拒絶する乱数だからこそ「世界」を語るに相応しいと思いました。

 

そして「世界」とは自分を移す鏡だと思います。それは、人間はたとえ望んでいなくとも自分の信じている世界のイメージを強化しようとする性質があると思うからです。

独歩の場合で言うと、独歩は自分のことを「取るに足らない存在なんだ」と認識しているので、その考えが強化される言葉や状況に安心し、逆に褒められると居心地が悪く感じていると思います。

実際、ディビジョンバトルにおいて課長に褒め言葉をもらっても、何か裏があるのではないかと勘ぐってそれを素直に受け取ることができていません。

このように人間とは、今までの経験になかった感情や環境に戸惑う存在であり、今までと変わらないことに安心する生き物だと思います。変化を受け入れることは勇気と信じる心とそれをするだけのエネルギーが必要であり、知らないことを恐れるのは人間なら当たり前のことだと思います。だからこそ独歩は望んではいないけれどもこの現状に安心し、鬱々とした世界を信じ続けるのだと思います。

確かに、実際に課長だったり本当に独歩を責める言葉を言う人が周りにいると思います。しかし、その人たちに囲まれることを選択し、それを受け入れているのは他ならぬ独歩であり、独歩のネガティブな思考こそがそういう人たちを引き寄せている面もあると考えています。

 

ただ、これは決してその選択は悪いわけではなく、というか良いとか悪いとか言えるものでもなくて、独歩なりのこの生き方こそが独歩を独歩足らしめているものであり、ここにこそ人間の面白さがあると思います。

独歩の極端な自己評価の低さは失敗したときに他者に許されるため、そしてできなかったことに対して自分に言い訳を用意するためだと思います。それは多感な独歩にとってまともに感情と向き合うことはつらいことであり、逃げ道を用意することが彼なりの生存戦略なのではないかと思います。

私が言えるのは独歩はこの生き方を選択したのだという事実があるというだけです。それが独歩にとって幸せなのか、不幸せなのかは独歩自身が決めることであり、今までそうしてきたのだから独歩としては良いんじゃないかと思います。

ただ乱数は世界の外側にいる人であり、面白いことや楽しいことが好きな人なので、独歩に対して「お前は”ダメな自分”というセルフイメージを強化し続ける生き方をしているのだ」という事実を突きつけてくるのではないかと考えました。

 

乱数が独歩の仮面を持って追いかけてくるのは、独歩が他人の言葉に自分の主観を当てはめて物事を解釈していることを表現したかったからです。独歩は他者から言葉を受け取るとき、「こんなんじゃダメだ」という自分を責める気持ちを投影して解釈するように、周りの人たちは独歩の写鏡であることを示しています。

そして乱数が持っていた色眼鏡は、まさにそうやって自分のことを偏ったイメージによって認識する「認知の歪み」の象徴です。人間は世界そのものを見ているのではなくて、色眼鏡という特定の色のフィルターを通すもののように、自分の信じる概念を選択して得られた情報から作り上げた世界の”イメージ”を認識しているものだと思います。たとえそれが望んでいないものであっても、自分の考えに合致するものを選択的に見ています。

具体例を出すと、自分の好きなジャンルがあったとして、それに肯定的な意見を見かけたとき「やっぱりそうだよな!」と嬉しくなると思います。しかし、否定的な意見を見かけたとき、「何言ってるんだろうこの人は、分かってないな」とか思ったりしてスルーする人は多いのではないでしょうか。つまり、無意識のうちに自分の意見を肯定してくれるものの情報の重要度は高く、否定してくるものの重要度は低くなって認識していると思うのです。

しかし、独歩はそういった事実もまた理解したくない概念なので、乱数からかけられた色眼鏡を弾いて乱数から逃げようとします。目線も乱数に合わせることはありません。独歩にとって本当の真実を見て心が壊れるよりも、自分の信じた世界に閉じこもってを身を守ることの方を選択すると思ったからです。

 

 

 

山田一郎「過去」

次に、イケブクロの「時間」のテーマについてですが、人間というのは同じ個人であっても時間軸によって変化していきます。連続性がありながらも変化していく存在です。それは山田三兄弟が同じ血を受け継ぎながらも別々の人間であることになぞらえられると思いました。

そしてこの「時間」の観点で考えると、一郎は「過去」の人だと思いました。それは一郎が、弟たちのことを今の成長してそれぞれの価値観に基づいて生きている存在ではなく、過去の在りし姿のまま一郎に素直に従ってくれる”理想の弟”のまま認識していた(いる)と思うからです。

例えばイケブクロディビジョンを結成する際、一郎は弟たちの力を認めていませんでした。それは危険なバトルに巻き込んでしまうことを考慮して断ったともとれると思いますが、実際に二人がマイクを使って証明するまで彼らの本当の実力を知らなかったことは一緒に暮らしている割には少し違和感がある気がしました。一郎が二郎三郎と再び暮らし始めたのが最近だからなのかもしれませんが、「こんなに大きくなったんだな」というような台詞からは昔の二人の姿を引きずりすぎている気がします。弟たちとバトルした後は彼らの実力の認識を改めていますが、それでも二郎の自分に対する思いが本当はどのようなもので、三郎は何を考えてあのような振る舞いをしているのかには気づいていないと思います。一郎は、二郎の「一郎が神」という思想と真剣に向き合っているとも思えませんし、三郎が関心がないにも関わらずオタク談義に話を合わせてくれているのだと正確に理解しているとも思えません。”本当の彼ら”を見ていない、過去の彼らの言動から一郎の中で創造したイメージと会話しているような感覚があります。私は一郎が”過去の虚像の世界”で生きているような気がしてしまうのです。

さらに、ヒプステにおいても一郎は”カズ”という昔なじみの仲間に対して「本当にお前は変わらないな」という台詞をこれでもかというほど言っていて、この現在の弟たちへの認識の齟齬がカズに対して繰り返されているように感じました。一郎は”人間は考え方や生き方、価値観が変化していく存在だ”という認識をほとんどしない人間だと描かれている感じがします。

なので、一郎は”他者を見るとき、あまり現在における姿を見ておらず、過去の相手のイメージを保ち続ける人”だと考えたので「過去」を語ってほしいと思いました。

 

加えて、二郎三郎にとっても”過去の兄ちゃん/いち兄”の姿が大きな価値を持っていることも「過去」の人としての役割を持つ理由です。一郎は周りの人達に対して”過去の人間像を延長させたイメージ”を持っているのは今述べたとおりですが、周りの人達からも過去の一郎の姿のイメージが強固に保持されている面があると思いました。

二郎三郎は一郎を敬愛し信奉しすべての基準として認識していますが、それは昔の一郎の”完璧な兄”としての振る舞いが強烈すぎたからだと思います。まだ何も知らない子供にとって世界とは”知っている人との関わり”の広さしかありません。そして大抵それは「家族」です。一郎が”父親”代わりとして二人の面倒を見てきたことは、たとえ一郎に至らない部分があったとしても二郎と三郎はそれが自分たちにとって良いことなのか良くないことなのかの判断はできません。なぜなら彼らの世界は「家族」のみであり、一郎の行動の良し悪しを判断する相対的な存在がいないからです。一郎が絶対的な正しさである彼らの家族においては二郎三郎が一郎の不完全さを認識することはできなかったと思います。成長し、他の世界を知れる機会を得た今も、一郎に不完全な部分を認識できなかったために完璧な存在として君臨していた”いち兄”のイメージが大きすぎて、その二郎と三郎の期待を背負わされているのが今の一郎なのかなと思いました。

 

そしてこの一郎と独歩を向き合わせたとき、独歩もまた「過去」の部分が大きい人だとおもうので独歩は一郎の姿を見ることができます。独歩は自分の感情の中で生きているというのは今まで述べたとおりですが、その感情や自己評価は過去の経験に引き摺られていることより、独歩もまた「過去」が強く影響している人だと思うからです。

 

さらに一郎は寂雷先生のように「誰かのために生きる」ことを体現しているような人です。だから独歩からすると一郎は見上げる存在であり、輝きを放っています。

一郎も独歩のことを見ることができますが、そもそも一郎はすべての人を等しく愛することができてしまう人間なので独歩もそのうちの一人に過ぎません。一郎にとって独歩は手を差し伸ばす対象のうちの一人であり、それ以上でもそれ以下でもないイメージです。

 

 

 

山田三郎「未来」

三郎は「未来」の人だと思いました。

三郎は頭も良く、未来を見通す力もあるし、目的を達成するために必要なことも、より効率的に推し進めるやり方もすぐに理解できてしまうと思います。三郎は一番冷静な視点でこのラップバトルの在り方、意義、目的を見通せる気がしていて、当事者だけではなく傍観者としての立場も持ち合わせている稀有な存在であると考えています。(一郎二郎という家族とは距離が近すぎて気がつくにはもう少し時間がかかると思いますが)

「New Star」であり、ヒプマイキャラの中で最年少のこともあり、その存在自体に無限の可能性が秘められているという意味でも三郎は「未来」だと思いました。

 

独歩はどうかというと、独歩は「過去の経験から作り上げたセルフイメージと世界」を信じ、「現在感じている感情に溺れている」人なので、あまり「未来」を理解する視点がないと思います。なので三郎とは目を合わせないし、その言葉もほとんど届いていません。というかそもそも彼を認識できていないのかもしれません。

 

 

 

山田二郎「現在」

二郎は「現在」の人だと思いました。それは感情と言動が素直に繋がっていて、過去どうだったから今度はこうなるとか、現在はこうだから未来はどうなるかとかいった余計な思考にとらわれない人だからです。

この「過去」や「未来」に心が奪われていないために今目の前にあるものに集中できるのは強さだと思っていて、「現在」のこの瞬間にすべてを出し切れる、普通の人だったらブレーキをかけてしまうところも持てる力を全部使って駆け抜けられる勢いがあるような気がします。

それは危うさではあるのですが、強さであることに変わりはないし、ヒプノシスマイクの世界は”戦い”の世界なので、そういう能力が求められている面もあると思います。

だから二郎は「現実」の今この瞬間を全力で生き、一瞬一瞬の感情を全身で受け止めて彼なりの精一杯をちゃんと頑張れる人だと思います。

 

また、人間が不幸になる瞬間は「過去」や「未来」にとらわれて「現在」に生きていないときだと思っています。「過去」に起きた失敗を「現在」においてもリフレインさせてしまったり、まだ起きてもいない「未来」のことばかり考えて「現在」すべきことを疎かにしてしまったり…

その意味で、二郎はこの人間のどうしようもない”業”から最も遠いキャラクターだと思います。二郎は過去や未来のしがらみがない、一番身軽でフラットな存在だと思います。

 

しかし独歩は現在の感情を感じていながらもそのすべてを把握しきれていないので見ているようで見ていない状態です。

なので二郎は独歩のほうに言葉をかけることができますが、独歩はどこかぼんやりとしています。

 

 

 

入間銃兎「理想」

ヨコハマの「信念」については、彼らは理想のビジョンがハッキリしていて、善悪の基準を明確に持って生きている強い人たちなので、それぞれが重んじているものを語ってほしいと思い、このような表現になりました。

 

銃兎は「理想」の人です。

薬物撲滅という信念に基づいて警官となり、親や同僚の死を背負う今の彼はその生き方をけっして曲げることはないと思います。

銃兎には明確な理想があり、その願いを達成することに最上の価値を見出しているからこそ、悪事に手を染めたとしてもその歩みを止めることのない強さがあるのだと思います。

 

そして同様に独歩も、独歩なりの理想を持っていると思います。普段の言動こそネガティブですが、それは独歩が「こう在りたい」と願う理想があるからこそ抱いている感情なのではないでしょうか。独歩は仕事を効率よくこなして成果をあげる優秀な存在になりたいと思うものの、その高い理想の自分と現状の自分との乖離を感じてネガティブな自己評価をしているのだと思います。

先程独歩の自分自身への過小評価は逃げ道のためと書きましたが、それに加えて、このよに理想が高すぎるが故に相対的に現状の評価が悪くなっているという面もあると考えています。

 

しかし、そんな同じ「理想」を持つ独歩と銃兎ですが、独歩は銃兎のようにある明確な行為をすることではなく、ただ周囲の人間において自分より優れていると思われる部分を寄せ集めた”漠然としたイメージ像”になりたいと願っている点が違うと思います。この”漠然としたイメージ像”というのは、「(一二三のように)明るくどんな相手でもスムーズにコミュニケーションがとれ、自分の弱さを克服して目的を達成し、(寂雷先生のように)他者に必要とされるような、何事も完璧にこなせるようなすごい存在」…というように、独歩の認識に飛び込んできた情報を全部ごちゃまぜにしたイメージ像です。

ですが、独歩が出会う人間は無数にいるわけで、その人達から自分にないものを見出し続ける限り、それらすべての条件を満たす存在になることは到底不可能です。

ここでもまた「自分の信じる世界を信じようとする」ということに通じてくるのですが、独歩は「今の自分じゃダメだ」という思いを抱えているので、その考えを証明するような言動をとってしまう節があると思います。それは「自分にないものを持っている人のようになろうとする」ということであり、「自分ができない」ことばかりに目を向けているということです。その視点で世界を見ている限り、彼の中に絶対的な理想がないので、まるで根無し草のように周りの人の能力の方向性に独歩が振り回されてしまう面があるのではないかと思います。

そのため銃兎の明確な意思を示されたときに、ぼんやりした理想をなんとなく抱えているだけの独歩はその圧に耐えられないのではないかと考えあのような描写になりました。

もちろん、銃兎より独歩の方が弱いというわけではなくて、本人が自覚していないだけで独歩には独歩なりの強さがあるんだけれども、「理想」という観点から考えたときあのような対比ができるのではないかと考えました。

 

 

ちなみに、独歩の強さは「感情」であり、そして「自分のために怒れる」ことにあると思います。

まず「感情」という強さについてなのですが、独歩は溢れる感情の処理が追いつかないので、普段はとりあえずその矛先を自分に向けてやりすごしていて、感情量がある一定値に達すると一気にそのベクトルを周りに向けるというイメージがあります。

独歩って感情と思考と言葉がずっと彼の頭の中をぐるぐるしているのではないかと思います。そして帝統との対話で「生きる」とは「感じる」ことそのものだと表現したように、その「感情」こそ生命のエネルギーだと思うので、「感情」を抱えながら生きる独歩の戦闘力自体は凄まじいのだと思います。

「自分のために怒れる」については、やはり一二三という絶対的に信頼できる存在がいるからこそなのかなと思うのですが、独歩は自分を無価値だとは全く考えていない気がします。ダメダメだけどそれでも頑張りたいし、散々自分のことをこき下ろしておきながらも見限る気はさらさらなく、ちゃんと防衛本能が働いているところはすごいと思います。大抵、ネガティブになる人は自分を責めることに安心して次第に自分の存在自体も否定し始めると思うのですが、独歩はあれだけ謝り倒してやってきているのに何故か「生きる気満々」で「死ぬ気がまったくない」のが面白いなと思っています。弱音を吐くし、自信はないと言いながらも理想を願いながら自分を奮い立たせて頑張ろうとする。そして追い詰められれば逆ギレのように吠えて自分の中に蓄積していた爆発的なエネルギーを炸裂させる…

独歩の強さはそういうところにあると思います。

 

 

話を戻して、独歩と銃兎は同じように「理想」を抱く者同士なのですが、その方向性が銃兎は世界中心、独歩は自分中心でありその対象が逆です。それ故に強さのベクトルも違うし、基準が異なっています。

Death Respectで最高にかっこいいバトルをかましてくれた二人ですが、このような対比ができるんじゃないかと思っています。

 

 

 

毒島メイソン理鶯「正義」 

次に登場する理鶯ですが、私は「正義」の人だと思っています。

自分なりの「正義」が明確な人は、「理想」を掲げる銃兎同様とても強いと思いますが、理鶯のすごい点は「正義」を彼自身の範囲で完結させているところにあると思います。

人間は「思いを他者に押し付けること」をしてしまいがちですが、その思いの中でも「正義」は最も自分以外に適用してしまいがちな概念だと思います。なぜなら「正義」は「正しい」ことだからです。(実際一郎は「他者へ自分の正義の押しつける」ことをしていると思います。「壁をぶっこわせ!」「この支配を終わらせる」といった言葉は弱者にとって正義ですが、その正義は一郎の考える正義にすぎず、このことに周りの人を道連れにすることは本当に正しいことなのかは疑問だと思います。左馬刻が一郎を「偽善野郎」と呼ぶのはこのことを指しているからではないかと考えています。)しかし、理鶯は軍が復活することを信じてサバイバル生活を続けているわけですが、他人にその価値観を押し付けることはありません。

これは、理鶯はその「自分の思う正しさ」を完全に信じることができる強さがあるので、「自分の思う正しさ」を他人に適用してその正しさを証明することをしないのだと思っています。

そしてなぜそんな強さがあるのかというと、理鶯が「正義」とは自分勝手なものと知りながらも自分と他者の世界は別々なものだと理解しているからではないかと思います。これは驚異的なことです。人間は少なからず他者の承認がなければ不安に感じる生き物だと思うのですが、理鶯にはその恐怖が圧倒的にないと思います。自分の信念を貫いた上で相手の意志を尊重できる理鶯は本当に強いと思います。

 

(ただこの狂気とも言える理鶯の強さは彼が夢の世界で生きているような儚さをも感じさせます。理鶯は自分を信じ切ることができるゆえに他者の考えや価値観を取り込むことをしようとはしません。きっとどこまでも理鶯は理鶯らしく生きるのだと思います。そしてそれだけの強さは他者を必要としない孤独を伴うものだと思います。

たしかに、人間とは同じ世界を共有しているのではなく、それぞれが見たい世界の情報を選択的に得て、経験する状況も感情も違う限り、全員が違う世界を見ていることからも存在する人間の数だけ在る世界が折り重なっているものだと思います。

しかし、理鶯は他者と交わる世界の領域がとても少なくて、乱数とは少し違いますが、彼もまた彼の世界に独りきりな気がします。)

 

一方で独歩はというと、過剰なほど他者の評価を気にして「やっぱりダメなんだ」という考えを証明しようとする癖があります。そんな独歩からすれば理鶯の絶対的な自分への自信に基づく強さは圧倒的です。

だからこそ理鶯が立っているだけで独歩の足場はぐらついていき、最終的に地面が割れて独歩は落ちていきます。理鶯の生き方を示されるだけで独歩はその場にいられないのではないかというイメージを表現したかったです。

 

 

 

碧棺左馬刻「愛」

そんなふうに生き方を叩きつけられて落ちていく中で独歩が次に考えるのは「愛」です。「愛」こそ人間の本質とでもいうべき感情であり、自分を自分足らしめ、そして自己と他者をつなぐ鎖だと思います。 

そして左馬刻はその「愛」の人だと考えています。

それは左馬刻の中で人間の分類の仕方は「自分と、自分が味方だと認めたもの」と「自分の敵であるもの」の2つだと思います。そして左馬刻は「自分と、自分が味方だと認めたもの」である妹や部下や仲間を守ることを自分に課してきた人だと思います。

さらに左馬刻はその優しさ故に、ただ甘い言葉をかけることは優しさなんかではなく自己陶酔にしかならないことを知っていて、その人のこれから先を考えるとき本当の現実を教えてやることこそが救いと信じ、”本当に相手のためになること”を考える人だと思います。

それこそが左馬刻の考える生き方であり、正しさであり、それを実行することは自分という存在の証明としていると思います。

そんな周りの人間をしっかりと見極められてしまう左馬刻からすると、独歩は「現状と向き合うことをしない人間」としてその瞳にうつるのではないかとないかと思いました。だから独歩の眼をしっかりと見て、拳銃を突きつけ、その引き金を引きます。左馬刻は独歩に「お前はきちんと目の前の問題に取り組んでそれを乗り越える覚悟があるのか」と問いかけてくるような気がしました。

でも独歩からすればそれに対する明確な答えを探している途中だからこそ答えられません。そして銃弾が貫いて気を失います。

 

 

(ちなみに左馬刻が「愛」の人のくせになんであんなに短気なのかという話なのですが、その愛は自分にも向いているからこそ、自分の存在が傷つけられたと感じたときにちゃんと怒れるからだと思っています。自己愛=プライドがしっかりしている人の現れだと思います。

ただ、左馬刻はいつも自分より弱いもの、自分を慕ってくれるもののことばかり考えて行動することを自分に課して生きてきたので、愛はあるのですが自分の望みとか欲望とかに鈍感というか、感度が低くなってるというか下げなければやっていけなかった面があり、もともとその心の中に怒りのエネルギーが渦巻きやすい状態にあるのではないかと考えています。なので、気に入らないことがあったとき、元々自分の中にあった憤りの発散先としてそれに対して怒るという言動に繋がっているのではないかと思います。

自分の尊厳が傷つけられていること自体には気づけているのですが、それがどういう質量を持って自分に降り注いできているのかというのを考えるセンサーが鈍い(鈍くせざるを得なかった)ために、ピンポイントではなく自分以外という全方向に対して怒りの態度を示さないと自分を守れない切なさをはらんでいるのだと思っています。)

 

 

 

神宮寺寂雷「人間」

次に独歩が目醒めたときには草原が広がっていて、そしてこのように思考する「人間」とはなんなのだろうと問い始めます。

 

そして「人間」とは多面的な存在で、けっして一言で言い表すことはできません。悪人が善をなすこともあれば、善人が悪をなすこともある。そして自分とはどういう存在なのかを余すことなく語ることができる人もまたいないと思います。ある人に対してはどこまでも優しくできるけれども、別の人には嫌悪を覚えて全然話す気になれなかったり。また時間に応じても考え方や感じ方が変わるので、特定のものに対する評価も変化していく。そうやって曖昧で不確かで不安定な存在が人間だと思います。

そして人間の言動や思想を評価するときそれを「正義」だと思うか「悪」だと思うかは立場によってまったく異なると思います。例えば戦争をすることは「悪」だと考える人がほとんどかと思いますが、戦争をして自分の国を守ることを「正義」だと考える人もまたいると思います。

どんなことをしたとしても、それについて「正義」と判断できる立場もあれば「悪」と判断できる立場もある。何をしたところで見方を変えれば「正しい」と言えるし、「間違っている」とも言えます。だから人間とは「正義も悪も併せ持つ存在」と先生は言います。

 

人間という種族全体で考えたときの進化の可能性は無限に広がっており、人間が「今より良くなりたい」という本能を持っている限りどこまでも前に進み続けていくと私は信じています。だから「星の輝き」を持つ存在だと思います。

 

そしてすべての物事はフラクタルだと思っています。基本の原理があって、それがあらゆる物事の大きさに拡大縮小して適応されているのだと思います。表面上は全然違うものに見えたとしても、その本質を突き詰めれば同じ考え方や理論に基づいてる気がします。

例えば数学では様々な単元や問題の形式がありますが、問題を解くときの考え方はいつも変わりません。問題で問われていることから何が必要か逆算し、必要な法則を用いてそれをたどっていうやり方を身につければどんな問題でも応用していけると思います。方程式や三角比やベクトルといった道具こそ違いますが、答えへのアプローチの仕方はいつもは変わらないと思います。

また人間関係において考えると、恋愛においても家族においても友人においても職場においても夫婦間においても本当に様々な問題があると思います。しかし、それらの問題を突き詰めて考えれば、結局どれも「自分の感情の処理を相手に任せようとする」「相手に自分の願いを押し付ける」「相手の気持ちを無視して自分の思い通りに動かそうとする」ことに由来している気がします。自分がコントロールすべき範囲と相手がコントロールすべき範囲があるのに、それらを混同し無遠慮に相手の領域を踏み倒すから反発が起きるのではないかと考えています。

このようにすべてのことはこの世界のものである限りこの世界のルールに従っていると思います。

 

そして人間は存在しているこの世界のルールに従っているのだとすればまた、その人間が観測しているこの世界も人間のルールに従っていると思います。さらにこの考えを押し進めれば、人間の構造も世界の構造も同じ法則に基づいており、その意味で人間は宇宙の縮小型だと思っています。

私が好きな話に、宇宙の成り立ちが人間の脳のニューロンの構造に似ているというものがあります。これを知ったとき、やっぱり世界と人間の成り立ちは共通した法則に基づいているんだと思いました。(http://karapaia.com/archives/52170614.html

なので、人間の可能性の深みと宇宙の性質を備えていることを考えれば、人間とは「宇宙の深淵を内包する存在」でもあると思います。

私は寂雷先生を「世界を見渡す人」だと考えています。周りの人を「興味深い」か「興味深くない」かの視点で見ている先生は、人間を通して世界の根本原理そのものを知ろうとしている気がします。コミカライズにて暴動が起きたときも、先生は目の前の人を看病しましたが、それよりもこの日本の行く末を案じてみたりと思考のスケールが大きいと思います。

なので、この「人間と世界と宇宙はフラクタルであり相似形なのだ」という観点を語ってほしいと思いました。

 

 

そして先程も述べたとおり、善や悪を判断しているのはそれを認知した人間であり、認知される前に起こっているのはただの事象であり出来事にしかすぎません。元々は善も悪もなんの属性も持ち合わせていなかった出来事を人間が認識し、それらに「意味」を見出すことで始めて善や悪といった評価が生まれるものだと思います。なので、物事は人間が観測しなければ、誰かが評価しなければその出来事は起きていなかったことと同義だと思います。

だから「価値の創造者であり観測者である」と言えると思います。

 

また、人間は全員が自分の世界の主人公です。他者の考えを知った気にはなれるけれども、どんなに言葉を尽くしたって自分と近い価値観を参照するというプロセスを踏んで「理解」という行為をしている限りは、本当の意味での「感覚の共有」はできないわけで、この今見ている世界を形作っているのは他ならない自分だと思います。

だから人間は「世界を至る根源であり限りなく末端である」と思います。

 

 

そしてこのように独歩の問に対して答える先生はいつも通りです。ただ静かに笑って、自分にできることをこなし、思っていることを話しているだけです。

しかし、先生の視点はあまりにスケールが大きすぎて、自分に向き合うことに必死な独歩はその規模の違いを恐ろしく思うのではないかと思いました。たしかに寂雷先生のように生きることは憧れではあるけれども、自分にできないこそ惹かれているからこその感情でもあり、それを見せつけられた時独歩は先生の考えをすんなり受け入れるとは思えませんでした。だから独歩は目を瞑って圧倒的な情報から逃れようとします。

 

 

 

伊弉冉一二三&観音坂独歩「自分と相手」

「自分」とは何なのか分からないことは、絶望してしまうほど恐ろしいことだと思います。

過去の自分とは同一の存在のはずなのに過去の自分とは変化していく、そのことは死ぬほど怖いことだと思います。「自分」を明確に定義できないことがとてつもなく不安で、だからこそ何かに依存したり縋って自分で責任を負わずに済むようにしたり、しんどい現実について考えないで済むようにただ感情に酔える刺激を求めたり、地位や名声という「他者からの評価」を獲得して自分という存在を強固にすることに躍起になったりするのだと思います。

独歩は「自分とは何か」を一二三には問いますが、それは誰にも分からないことです。その独歩の不安を一二三は共感できると伝えます。他者とは決して理解しあえない存在だけれども、だからこそ相手の共感できること、気持ちに寄り添えることが重要なのだと思います。そして世界で自分一人の感情しか感じられなかった独歩にとって一二三の歩み寄りはすごくあたたかいものだったと思います。同じ気持ちを抱いているのかもしれないと思えることは希望であり、自分の存在が証明される瞬間だと思います。だから一二三は「俺といれば、お互いに承認し合えば怖いものなんてない」と言います。

そして独歩の「自分が薄れていくこと」「存在が揺らぐこと」とは先に述べたように自分を明確に定義できず、目的もなく存在していることへの不安を表現したつもりでした。

「だから一緒にいよう、ずっとずっと」「他者とは自分との境界線なんだ」「2人でいれば存在は真実になる」「もう自分という概念に怯える必要はないんだよ」という一二三の言葉はそんな独歩に新たな価値を注ぐ瞬間です。「自分」とは分からない、定義できない存在ですが、「自分ではない存在」と比較することで自分の境界線があるんだと知ることができます。

天才は天才一人が存在しているだけでは当たり前のことをこなしているにすぎなくなってしまいます。天才が天才足りうるのは天才でない人がいるからこそです。

同様に「相手」がいるから「自分」がいる。人間は自分を見てくれる人がいないと自分というものを見つめることができない。そんな一人では生きていけない存在だからこそ、一緒に行こうと独歩に対して一二三は言います。

そしてそれを受け入れることで、独歩は「あぁ、それはきっと幸福だな、これが幸せなんだな」という答えを見つけます。

 

 

独歩の前に現れた一二三以外の10人に関しては、実際そこに存在している彼らに言われているというよりかは、独歩自身の自問自答において答えを示す形がたまたま彼らの姿をしていた、ということも考えていました。

それは、人は誰かに質問したり相談するとき、大抵は自分の中で答えがすでにあるものだと思うからです。ただその答えが世間的には「正しくない」と言われていることだったり、リスクが大きすぎて不安に感じてしまうからこそ、自分ではない誰かにその選択肢でも大丈夫だと背中を押してほしいからこそ問うものなのではないかと考えています。

独歩は質問をしているものの、結局独歩が心のどこかで気づいている答えが返ってくるだけな気がしました。聞いていないように表現したものもいくつかありましたが、知っているからこそ聞かないふりをしたとも考えられると思います。

 

そんな中一二三だけは本物のつもりでした。それは一二三が独歩と関わることで一緒に生きていこうとしているからです。

独歩にとって感知できるのは独歩の感情だけで、他の人がどうなろうと彼にとってはあまり関心がないように見えます。チグリジアにて「独りでも歩けるよ」とあるように、独歩は独歩だけでも生きていけるのだと思います。

しかし、一二三は独歩という存在と一緒に進もうとしていると思います。

それは一二三が女性恐怖症なので独歩が必要であるという都合もあるかと思いますが、独歩は一二三を「綺麗だから」「美しいから」「シンジュクNo.1ホストだから」などの表面的な価値だけで判断しない人だからなのではないかと思っています。人間は見た目やその人の持つ価値に目を奪われがちですが、独歩にとって大事なのは自分なので、自分と周りを比較して卑下する面と同時に、他者の地位や名声にとらわれない視点があると思います。もちろん一二三とは幼馴染であるということも大きなファクターだと思いますが、それ以上に独歩は本当の一二三を知り、その在り方を”純粋に”認めてくれる存在なのだと思います。他者からの評価をとっぱらった一二三を見ることができるのだと思います。

そして一二三はそんな独歩だから一緒にいたいと思うのではないかと考えました。

 

 

一二三と独歩はどこか魂が混ざりあったような感じがしています。それはただ相手を好きになって、付き合って、デートに行って…というある程度手順が決まったテンプレな「恋愛」の括りには収まりきらない、彼らだけの「愛」の在り方が提示されているような気がしていて、私はそこがすごく好きです。

たしかに「共依存」と取れるかもしれませんし、お互いに自立していないことは良くないと考える人もいるかもしれません。

しかし、私は人間は絶対的に孤独な存在で、どうやっても他者とは分かり合えないと思っていたので、こうやって長い間一緒に居ることが心地よいと感じる二人の関係性が新たな人間の可能性として希望のように思えました。

一二三は女性恐怖症で、独歩は極度なネガティブ思考で、普通に考えたら改善しなければならないような問題を抱えている二人のように思えます。しかし、彼らは「まぁそれがお前だよな」と認めているところがすごいと思います。一二三が女性恐怖症だからといって独歩は余計なアドバイスと言う名の価値観の押しつけをすることなく、一二三が一二三のペースでやっていくことを受け入れている気がします。また一二三も、独歩に対して「謝るのやめなよ」とは言いますが、言われてもなおその癖が抜けない独歩を認めて「それが独歩だよな」と独歩の在り方を否定することはありません。「こうした方が良い」というのは相手のためを思って言っている言葉かもしれませんが、突き詰めれば自分の考えが正しいことを相手を使って証明しようとする行為に過ぎないと思います。だから、これだけ長い間一緒にいながら、自他の境界をちゃんと守り、お互いを尊重し合ってる二人は本当に素敵だと感じました。だから私はやっぱりこの二人が好きです。

 

 

 

まとめ

気持ちを伝えてそれに相手が呼応したとき、「言動や思考を縛った」と言えると思います。そしてそれが良い影響となれば「救い」、悪い影響となれば「呪い」となるのだと思います。私にとっては一二三と独歩の二人で支え合い、その魂が溶け合ったような関係性はお互いの言動を縛る「呪い」でもありますが、同時にこの世界を生き抜くための新たな形の「救い」に見えて、自分の手でそれを表現してみたいと思いました。

 

既存4ディビジョンキャラの持つテーマについてはここに書いたことがすべてではなく、それぞれのキャラが独歩ではないキャラと出会うことで変わっていくものも大いにあると思います。あくまで「独歩」と対比させたとき見えるものはなんだろうかと考えたものなので、それらはまた別の機会で形にできるように頑張ります。

 

 

というわけで、長くなりましたが、独歩と既存の4ディビジョンのキャラを照らし合わせることで見えてくるそれぞれの人間性と、独歩が一二三と出会うことで生まれた新たな価値観を表現できていたらいいなと思います。

ここまで読んでくださって本当にありがとうございました!

 

 

 

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