私がヒプノシスマイクを好きな理由
ヒプノシスマイクがめちゃめちゃ好きです!
本当に大好きな作品です!!!
ここしばらく1~2年ジャンルにハマるということがなく、私もそろそろ腐女子卒業できたのかな~とか思ってたら全然そんなことなかったぐらいです。(人間って変わりませんね!)
お絵描きも再開してツイッターのアカウントも作って、ヒプマイの楽曲を聞きまくってヒプマイのみんなについて考えながら、毎日ピクシブで好きCPを検索して小説を読みあさったり、ストーリーの面白さやキャラの魅力について語るようになりました。ヒプノシスマイクというジャンルに骨を埋める覚悟があるくらい本当に最高な作品だと思っています。
キャラクターもストーリーもイラストも楽曲も声優さんもコンセプトも展開も公式ツイッターの謎ツイートも含めて本当に本当にかっこいいしクールだし面白いし最高だし大好きでたまりません。
そんなヒプノシスマイクの中で私が一番好きで惹かれているところは、あのぶっ飛んだ設定の世界にも関わらず私の信じるリアルな人間像が明確に描き出されているところです。
ここで言う私の考える”リアルな人間”とは、
「根本的にお互いを理解することはできない」「人間は自己中心的な発想に基づいて生きる」「自分が一番大事」「自己実現のために周りを利用しようとする」「自分が分からなければ相手も分からない」「正しくありたいと願うが、時にその正しさを他人にも押し付ける」「自分と他者の境界線を認識することが大事」「矛盾したものを抱え、一言では言い表せないもの」「自分の信じる世界しか見ようとしない」「世界は自分の写し鏡」「言葉によって自分を知らず知らずのうちに定義している」.......とかだったりするのですが、ヒプマイはこれら以上のことを全部詰め込んでもなお耐えうるだけの味わい深さがある作品だと思っています。
ヒプマイで描かれるキャラクターたちはどこまでも自己中な人間をリアルに写し出している気がしていて、そこがすごく好きなんです。
抽象的な言い方で申し訳ないんですけど、「不純物が沈殿した後の上澄みだけ取ってきたキャラクター像」というのにあまり惹かれなくて.......確かにとても優しいキャラクター像で、素敵だと思います。正しい価値観を持ち、相手を思い遣り、心を尽くし、それを分かち合えることは素晴らしいと思います。
しかし、エゴに基づいて行動し正しく生きれない私からするとどこか淡白に感じてしまう部分がありました。人間ってもっと深みのあるものだと思っていて、「決して一言では言い表せないその人の中で相反するものを抱えながら生きている存在」だと考えているので、どこか物足りなく感じてしまうのです。彼ら彼女らは尊いほどに美しいけれども、何かが決定的に欠けている気がしてしまうのです。
なので、ただ綺麗なだけではない、ドロドロした醜い感情がヒプマイキャラから感じられることをすごく嬉しく感じてしまいます。
ヒプマイキャラの設定は複雑でわかりやすいものではなく、矛盾しているように思える面もあるかもしれません。しかし、それこそ人間の等身大の姿だと思います。誰かに対してすごく優しく接せる時もあれば、突然人が変わったように声を荒げて物事を非難した経験は誰にだってあると思います。人間とは決して一言では説明できないものであり、どこまでも正しく清廉潔白にはなれないのだという私の人間観に最も近かった作品が、ヒプマイだったのだと思いました。
ここで、そういう理由なら何故ヒプマイなのかというかの話をしたいと思います。
確かに、他の作品でも人間の本質を掴んでそれらをしっかりと描いているものはたくさんあると思います。人の心は揺れ動くものであり、相反する思いを抱えながらいかにして理想とかけ離れた自分を認めていくかといった様を描いている作品もありました。とてつもなく大きな人類愛が根底にあり、人間の感情の愛・憎しみ・支配・服従・不屈・狂愛などのテーマを扱っている作品もありました。そんな人間の思想を突き詰めたキャラクターたちははとても魅力的であり、それらを描く作品も現在進行形でワクワクしながら楽しんでいます。
しかし、何故だか、どうしてもその世界観に入り込めない感覚があると言うか……素晴らしい作品だと思うのに、どうしても与えられた情報以上のことに踏み込めない歯がゆさがありました。
決してそれらの作品に落ち度があったということではなく、私という受け手自身の問題なのですが、作品に求めているものの方向性が少しずれている感覚がどうしても拭えずにいました。私が好きな人間の心というテーマを扱っているんだけれども、だから自分がその作品に対してアクションを起こす気にはなれないというか……自分でも、こんなに面白いと思うのに何故!?という訳の分からなさと、逆にヒプマイなら熱狂的に熱を上げれることを不思議に思っていました。
そうして考えている中で、私にとってヒプマイが他作品と決定的に違うことの理由として、「リアルな人間の心理が描き出されている」ことからさらに一歩踏み込んでたどり着いた先は、私がヒプマイのみんなを他人事に思えないことだと思いました。
他作品のキャラクターたちもそのキャラだけが持つ魅力に溢れていて、ストーリーも新鮮で面白くてとても惹かれるものでした。しかし、ある感情が振り切れ過ぎていたり、生い立ちが特殊だったり、並外れた能力を持つ超人であったり、人間ではない種族を扱う作品は、私にはそういった経験がないために感動することはできても深く共感することができないのです。
それらの作品で描かれる生き方や生き様もすごくて儚くて輝いていて大好きです。でも彼ら彼女らはあまりにも、あまりにも自分とかけ離れていて、遥か高みにある雲の上の存在だったのです。私はただただ圧倒されるばかりで、そこから先の感情にどうしても進めなかったのです。
そんな突き詰めた感情を持つキャラクター像だからこそ好きだと言うスタンスもあるかと思います。しかし、私が作品に求めているものは、「私が信じ、私が共感できる、不完全な人間性や、弱さからくる心の揺らぎや、相手よりも自分の都合を優先してしまうところや、思いが暴走して矛盾してしまうといった良くない面も含めた等身大の人間が、私ではない他人の手によって描き出されている様を見て『私は世界に一人ではないんだ』と認められた気がする感情」であり、ヒプマイはその世界観全てにおいて余すことなく私の願いを叶えてくれる作品でした。
ヒプマイキャラのみんなはどうしても放っておけない何かを持っています。
一郎の周りをきちんと把握できていないにも関わらず他人のためになると信じて頑張ってしまう姿も、
二郎の自分には何もないからこそ周囲の人々の価値観を模倣して必死に吠える生き様も、
三郎の自分には無限の可能性があると信じながらもそれに伴わない現実の自分の無力さへの悔しさも、
左馬刻の現実は理不尽で不平等でどうにもならないもので吐き気がするようなものであるからこそ自分のために生きてやろうとする心構えも、
銃兎の理想が達成できないと知った時それなら地べたに這い蹲ったとしても現実を見返してやろうという気概も、
理鶯の正義とは自分の思うエゴであるからこそ自分と他人の境界をわきまえていたいとする心遣いも、
乱数のごちゃごちゃ考えるのはナンセンスだし楽しいか楽しくないかどうかの気持ちが大事じゃん!ってスタンスも、
幻太郎の人間とは矛盾して可笑しくて興味深くて愛しくてその有様を知っていきたいという欲求も、
帝統の自分が感じた気持ちに基づいて生きる素直さと無条件に自分を肯定し信じきれる勇気も、
寂雷先生の自分の思う正義がたとえ誰かの悪になろうとそれを信じ続ける姿も、
一二三の周りの人の立ち位置を把握して自分の立場を自覚して振る舞う美しい生き方も、
独歩のネガティブでいつだって自分のせいだし今日も付いてないことばかりだと嘆く姿も、
私にとっては分かる気がするんです。そしてそんな彼らを愛しいと思い、そのことに安心するのです。
作品に求めるものが何かは人それぞれだと思います。たとえば、忙しい日々を送っているなら安定したほのぼのできる話を求めるかもしれません。日頃から理不尽な思いをしているとするなら、勧善懲悪がきちんと想定された正義の話が好きかもしれません。退屈な毎日に刺激を求めているなら、ファンタジー世界の冒険譚が読みたくなるかもしれません。人間の醜さに辟易しているなら、正しい考え方を持つキャラクターたちが登場する優しい作品に惹かれるかもしれません。
きっといろんな人がいると思いますし、これらの言葉は全て私の想像に過ぎません。この文章を読んでくださっている人ごとに、作品に求めるものもその理由も違うと思いますし、それはあなただけの大切な感情でしょう。
私は、現実は苦しくてしょうがないし、いつだってどうすれば正しいのか分からないし、どこまでも情けない自分の存在を悔しく思いながら生きています。そんな私からすると、立場は全然違うけれどもでもどこか似たようなヒプマイの彼らが、「相手にぶつかって嫌いあって認められなくて信じた仲間とつるんで助け合って救いあったり勝って負けて喜んで悔しい思いをして、とんでもなく理不尽な世界でそれでも精一杯全力で前を向いて進んでいく姿」に強く惹かれ、共感でき、そのことを嬉しく思います。
彼らは「良い人」だけではない面を持つ「等身大のキャラクター像」であり、その「完璧になれず理想にもがき苦しみながら精一杯虚勢を張ってそれでも前に進もうとする姿」が、私からするととてもキラキラして見えると同時に、彼らも私と同じように苦しい毎日に歯を食いしばりながらも頑張って生きているのだという実感がより強く感じられるのです。
また、彼らの中で「生きることを諦めている人」は誰1人としていないと思っています。理想あるいは現実に即してだったり、逆にこれらのことを無視していたりと立場は違えど、それでも立ち止まっている人は1人もいません。その事実は私にとって希望であり勇気であり光であると思えます。
私はヒプノシスマイクのそんなところが大好きです。これが私のヒプノシスマイクを好きな理由です。
コミカライズに関して色んな意見があることは知っています。でも私はそのコミカライズで描かれている設定も含めて等身大の彼らの姿であると信じています。
間違った過去があったからこそ、それを繰り返さないように努力できるのも人間であり、自分の意思で新しい未来を掴めるのもまた人間だと思います。過去と言動が一致していないように見える面もあるかもしれませんが、人間ってそういう生き物だと思います。
過去の私は確かに私ではありますが、現在の私ではないと断言できます。なぜなら私は過去の考えを少しずつ変えて、前だと信じる方向に進んできた自負がありプライドがあります。きっとヒプマイの彼らも同じだと思います。
だからキャラブレして性格が矛盾しているのではなく、彼らは彼らの世界の時間軸で確かに変化し成長しているリアルな人間として描かれようとしているのだと思っています。
この作品には社会倫理に欠けているという面があるのも感じてはいます。しかし、ヒプマイのストーリーの方向性は正しい人間として持つべき思想を示すというものではなく、あくまで「不条理な世界で不完全で間違っている人間がそれでも戦い助け合いながら自分と向き合って成長していくことに重きを置くこと」だと思っています。「苦しみの中から生まれる希望や、理不尽な世界をどう乗り越えていくのか」ということを描こうとしているのだと思っています。
だからといって今までの表現が無条件に許されるわけではないだろうし、このことに関して最大限の配慮していって欲しいと願っています。ただ、ヒプマイが描こうとしている方向性は、誰もが認める正しい世界や模範的な倫理観を示すことではなく、間違った世界の中で他者を傷つけながらそれでもあがいて生き抜く様を描くことだと思っています。